NO MORE CABBEGE.

居酒屋で許せないのが「キャベツのお通し」である。

そもそも、このお通しという制度もよく分からない。日本に来た外国人が困惑するというのも無理はない。ましてやそこに生のキャベツが出てきたなら、国際問題に発展してもおかしくないのではないか。「ジャパンノエコノミックアニマルハナマキャベツポリポリ〜デス」と。

ところが、よく居酒屋に一緒に行く友人達は皆この生キャベツが好きなようで、出された瞬間に食べ始める。ポリポリと前歯でかじるその姿を見て毎回「ウサギみたいだな」と思いビールを飲む。これがお決まりパターンである。

 

逆に「良いお通し」とは何か。ちょっとした煮物なんかだと嬉しくなる。いつぞやどこかの居酒屋で出たいか明太も美味しかった。枝豆なんかもわざわざ注文する必要がなくて良い。というか、生のキャベツでなければいっそ柿の種が出てきても良い。生のキャベツ以外のものがお通しで出たのなら、その日の飲み会はそれだけで楽しいものになるのだ。

 

この生キャベツ、たまに良心的な店だとおかわりが出来たりする。僕は一切手をつけないので、友人達がポリポリと食べ進め、なくなった頃におかわりをするシーンがよくある。その頃には焼き鳥や唐揚げなど魅力的な料理が届いているのだ。なのに何故また味気のない生キャベツをおかわりするのだろう。そうしてまた僕らの目の前に山盛りになった生キャベツが届く。またポリポリと食べ始める。「あれ、小島さん食べないんですか?」と聞かれることもあるが、「誰がそんな味気のないものでビールが飲めるのか!」とは言えない。場の空気が悪くなるからだ。「いや、食べて食べて」と促す。そうするとまたポリポリが始まる。それを見ながら二杯目のビールを飲むのだった。

 

そんな光景をよく見ていると、ふとあることを思った。キャベツをポリポリと食べるあの姿というのはとても無防備である。最初は丁寧に箸で食べていたものも、途中で面倒になったのか素手でキャベツをつまみだす。あまりにも無防備だ。だが、お互いに気を遣わず、分け隔てなく打ち解けるのが楽しい飲み会なのだとも思う。例えば、普段接しにくい人と飲みに行き、その人が素手でキャベツをポリポリと食べる姿を見たのなら、その後の見え方もちょっと変わってくるのではないか。茶室の入り口が低くなっているのは、入り口で頭を下げながら入ることによって、茶室の中にいる人は皆平等なのだという意味があると聞いたことがある。生キャベツも同じような意味があるのかもしれない。ポリポリと齧りあえば、皆平等なのだ。

 

とはいえ、だ。僕はこれからもお通しのキャベツに手を出すことはない。例えそれが二十億光年に続く孤独の始まりだとしても、食べることはないだろう。ひずんだ宇宙の片隅で、僕は自分の信念を叫び続ける。

 

NO MORE CABBEGE.