石舟浮上せり

高校の頃の話である。僕は日本史の授業が好きだった。日本史自体が好きだったわけではなく、先生がたまに話してくれる「こぼれ話」が好きだったのだ。

印象に残っているのが最澄空海の話である。ある日、最澄空海というやばい坊さんがどんなやつかを確かめるために、一番可愛がっていた弟子(美男子)を空海の元へ送り込む。ところがその弟子は空海に惚れ込んでしまい、帰ってこなくなってしまった。最愛の弟子を取られてしまった最澄は、その弟子に向けて「頼むから帰ってきてくれ」と何度も手紙を書いたそうだ。その手紙が今国宝になっている……という話である(今調べたら久隔帖[きゅうかくじょう]と言うらしい)。

…こういうこぼれ話ばかり覚えていたので肝心な授業内容を全部忘れてしまい、テストは毎回散々だった。しかし、こぼれ話だけはこうして今でも覚えている。そのくらい日本史の授業が好きだったし、なによりも先生が好きだったのだ。

 

ある日、先生が授業中にこんなことを言った。「実は俺、小説家もやってるんだが、この間出版社から自分の小説が手元に返ってきた。欲しいやつは俺のところまで来い!サインもしてやるぞ!」と。

なんと先生は小説家だったのだ。一瞬にしてリスペクト値(尊敬の念を数値化したもの)が上がった。僕はその日の昼休みに先生のところに本を貰いに行った。いつもはよく喋る先生だが、本を渡す時は何も言わなかった。(今思うとあれはカッコつけていたのだろうか)

「あの、先生、良ければサインを…」

ちょっと恥ずかしかったが、勇気を出してお願いした。すると先生はその本に黙って、

 

「石舟浮上せり」

 

と書き、机から自分の名前が彫られた大きな判子を出してその下に押した。

か、カッコ良すぎる…僕のリスペクト値を測るスカウターが爆発した瞬間だった。「石舟浮上せりって何〜〜??その判子何〜〜??かっこいい〜〜!!」と。僕はサイン本を胸に抱きかかえ、教室に返った。

 

さて、その肝心の小説なのだが……うーん…なんと言えばいいのだろう。なんか女と男がフィンランドだったかノルウェーだったかに旅行へ行くというストーリーだった。が、当時の自分にはいまいちピンと来なかった。

……いや、もうはっきり言ってしまおう。クッッソつまらなかったのだ。冒頭で明らかに先生自身をモデルにした人物が出てきた時点で読むのをやめてしまった。

当時、出版社から自分の手元に本が返ってくる本当の意味を知らなかった。先生は小説を自費出版したが、全く売れなかったので借金まみれだった…と高校を卒業してから知った。「石」の「舟」ではなく「火」の「車」だったのだ。

 

今、「石舟浮上せり」と書かれたその本は、実家の押入れという、暗い海の底のどこかに沈んでいる。