『ふ』

『ふ』という言葉には何か不(ふ)思議な力がある。

 

小さい頃に読んだ本にこんな一ページ、いや二ページがあった。

そのページには、「きょうふのみそしる」という言葉と、恐ろしい顔をしたゾンビが味噌汁の入った茶碗を持っているイラストが描いてあった。

ところが、次のページをめくると実は「きょう、ふのみそしる」であり、先ほどのゾンビが嬉しそうな顔をして「やったー!ふだー!」と言っているイラストが描いてあるのだ。

つまり、「きょうふのみそしる」は「恐怖の味噌汁」ではなく、「今日、麩の味噌汁」だったのだ。しょうもないダジャレだ。だいたい怖い味噌汁とは何だ。味噌の代わりに脳味噌が使ってあるのだろうか。それだったら怖い。

 

先日、「大阪府」と書く機会があった。

その時に「府」という部分に妙な引っ掛かりを持った。日本で「府」が使われているのは大阪府京都府のみである。どちらも「大阪」「京都」と呼んでいるせいか、「本当に大阪『府』で合ってるのか…?」と不(ふ)安に思った。

「おおさかふ」と頭の中で音読してみると、ぼんやりと「柔らかい」イメージが浮かんできた。僕の大阪体験というと、道頓堀で背の高い女に「ねえ、もう行こう、ねえ」と強引に夜の店に誘われたり、新世界の地下劇場でホモのおじさんに股関節あたりをさすられまくったりと散々なものが多い。(ホモのおじさんの話はまた書こうと思います)

だが、大阪には人情や、温かみのような、色でいえばオレンジで、図形でいえば鉛筆で描いた楕円のようなイメージもある。この辺りのイメージが「柔らかさ」に近いのではないだろうか。散々な目に遭いながら、大阪のことを嫌いになれず、むしろまた行きたいと思うのも、この「柔らかさ」に触(ふ)れたいからかもしれない。

京都府の「ふ」はまさに京都のイメージ通りだ。

小学生の頃、修学旅行で京都に行った時、清水寺のあたりにあったお土産屋で小銭をばらまいてしまった。慌てて小銭を拾ったが、どう考えても100円足りない。小学生の僕にとって100円はまあまあな大金だったので、僕は途方に暮れて大泣きしてしまった。

そんな僕を見て、お土産屋の優しそうなおじさんが暖かい梅昆布茶を一杯くれたのだ。その梅昆布茶の美味さは、今でも忘れられない。

だからそれ以降、僕の京都のイメージはあの暖かくてほのかに酸っぱい梅昆布茶だ。ひらがな一文字で表すなら間違いなく「ふ」である。梅昆布茶を冷ます時も「ふぅふぅ」と息を吹(ふ)きかける。

 

豆腐の「腐」も本来は「柔らかい」という意味であると、どこかで聞いたことがある。「ふ」に持った「柔らかさ」というイメージはあながち間違っていなかったのかもしれない。

「ふ」という言葉には、人を「ふふふ」と笑顔にする力がある。

 

ところで、僕は昔から親に「お前といると『ふ』のオーラが移る」と言わているが、これは全くいい意味ではない。不(ふ)憫な小島を笑ってくれ。