孤独に目を覚ますJ.BOY

最近、広瀬香美の「Groovy!」という曲をよく聴く。カードキャプターさくらというアニメのエンディングに使われていた曲だ。

カードキャプターさくら自体、小さい頃にちらっとしか観たことがないが、この曲は強く耳に残っていた。そもそも、カードキャプターさくらのエンディングということは知っていたが、曲名までは分からなかったので最近調べて聴き出したのだが。

一曲フルで聴いてみると、一箇所違和感のある歌詞があった。それは2番の頭の方に出てくる。こんな歌詞だ。

 

街を見渡そう 電話やパソコン オンラインの扉

隠れてる 探そうよ この世は ハァ〜〜〜〜周りまっさ〜〜

 

この「ハァ〜〜〜〜周りまっさ〜〜」という歌詞、なぜ急に香美は神輿を担ぐかのような歌い方になるのだろう?と驚いた。「ハァ〜〜〜〜」の後に「ヨイショッ!」と言いたくなる。「周りまっさ〜〜」というのもよく分からない。何弁なのだろう。とにかく、陽気な曲なので陽気な感じを出したかったのだろうか。

一応、歌詞を確認しようと見てみると「ハァ〜〜〜〜周りまっさ〜〜」ではなく「宝島さ」と言っていたようだ。聴こえていたように書くのなら「たぁ〜〜〜〜からじまっさ〜〜」である。そしてこの歌詞の前に出てくる「オンラインの扉」と聴こえていた部分は「未来の扉」であった。ここは気づかなかった。パソコン、携帯ときたらオンラインでもおかしくない。

1番で「地球だって周るよ」と言っているのでこの世が周っていても、いや、周りまっさ〜〜しててもおかしくない…と思った自分がおかしかった。

こうやって歌詞を聞き間違えていたという曲は他にもある。浜田省吾のデビューシングル、「路地裏の少年」のある歌詞に至ってはおよそ20年ほど勘違いしていた。

僕の父母は大のハマショーファンで、幼少期から車のBGMはずっとハマショーだった。自分でCDを買うまで音楽=ハマショーだと思って過ごしてきた。特にこの「路地裏の少年」という曲はたくさんバリエーションがあるので流れる回数が多かった。

歌詞の中で特に印象的だったフレーズが

 

いつか孤独に目を覚ます

 

という歌詞だ。

幼少期は意味こそ分からなかった。が、大学を卒業する直前、友達と遊んでいる時に「今はこうして遊んでるけど、みんな就職したら遊べなくなるなあ」とふと思ったその瞬間、ハマショーが「いつか孤独に目を覚ます」と僕に囁いた気がしたのだ。

これか。みんないつまでも当たり前に一緒にいるが、いつか別れる日が来る。若きハマショーはそのことを歌っていたのだ。なんて切なく、そして素敵な表現なのだろう、と感動した。孤独に目を覚ます時は必ずくる。ただ、その時まで楽しい夢を見ていたい…とキザに思ったのである。

後に歌詞を見てみると「いつか孤独に目を覚ます」ではなく「いつかこの国目を覚ます」だったと知り、目を覚ましていないのは自分だったと思い知るのである。この恥ずかしい勘違いが消えるまで風を切り闇の中を突っ走りたい。

 

追記…改めてまた「路地裏の少年」について調べてみたらけっこう同じ勘違いをしている人がいたのでちょっと安心した。

妖怪切手ぺろ舐めの苦悩

この間、仕事で郵便を出す機会があった。

郵便を出す、なんて言っても大したことはしない。宛先を書き、切手を貼るだけである。

ところが、この「切手を貼る」という作業に差しかかろうと思った時、ふと手が止まった。

「舐めて貼っていいのだろうか…」

ここまでの人生で切手を貼るという作業は100回もしていないと思うが、その全ての切手を舐めることによって貼り付けていた。今までそれに何も疑問を感じていなかった。しかし今回、切手を舐めて貼るという行為に脳がストップをかけたのだ。

理由は二つある。一つは仕事で送る郵便であるということ。受け取る人にとっては切手が舐めてあろうがなかろうが、その有無を知る術はない。ただ、仕事でできるだけミスをしたくない。仕事上で送る郵便の切手を舐めるという行為がもしかすると「アウト」なのでは?と思ってしまったのだ。ビジネス書にも書いてあるかもしれない。「切手を舐める人は出世しない」と。

もう一つの理由、これが主な原因だが職場で舌を出して舐める行為がちょっと馬鹿っぽくないか?という不安を感じたからである。いつの日にか書いたが「他人は自分が思うほど自分を見ていない」と思っていてもどうしても気になってしまう性分なので、果たしてこの行為が許されるのだろうかと不安になってしまったのだ。ペロンと切手を舐めた後に「今、切手をつけるために仕方なくやったことですよ」と言わんばかりのキリッとした表情をしたとして、挽回出来るのだろうか。舐めた時点で僕はもう「妖怪切手ぺろ舐め」なのだ。

こんなことを考えてしまい、本当に手が止まってしまった。ただ、貼らないわけにはいかない。切手も満足に貼れない無能男、と思われる方がよっぽど嫌だ。結局、ティッシュを一枚給湯室に持って行き、湿らせてから切手にポンポンと押し付けて貼ることにした。しかし、水をつけすぎたのか切手が予想外にふにゃふにゃになってしまった。幸い中の封入物は濡れなかったが、机を少し濡らしてしまった。ミスをしたくないという気持ちのせいで結果的にミスをしてしまった。机を拭いている時に「自分に足りないのは人目を気にしない心の強さだ」と痛感した。書いていて思ったが普通に糊で貼り付ければよかった。

 

ところで切手を一枚舐めることにより2キロカロリー摂取できるらしい。100枚舐めると200キロカロリー。カロリーメイト2本分だ。お腹が空いたけど食べるものがなく、代わりに山のように切手がある人にはオススメである。

STAP細胞を飲んだ話

 

STAP細胞」を覚えているだろうか。

 

2015年、何かと日本を騒がせたSTAP細胞。僕はゴリゴリの文系なのでそれが一体何かは知らないが、連日のようにニュースになっていたので記憶にある(2015年以降に生まれた方は知らないかもしれない。詳しく知りたい人は今目の前にある機械で調べてください)。

発見者の小保方さんは会見で「STAP細胞はありまぁす」と言っていたが、本当にあると思った人は少ないのではないだろうか。

僕は、あると断言する。何故ならSTAP細胞を飲んだからである。

 

2016年冬の出来事である。僕はある用事で東京にいた。東京には大学の後輩と、その後輩と一緒に住んでいる同級生がいる。用事が済んだ僕は、せっかく東京に来たのでその二人と会っていた。

後輩の家の近くの井の頭公園に行き、三人でふらふらと遊んでいると突然後輩がこんなことを言い出した。

「このあたりに、小島さんの好きそうな怪しい店があるんですよ」

僕は怪しい店が好きだ。エッチな店ではない(エッチな店は嫌いではないけど)。裏路地にひっそりと佇む、人を寄せ付けぬ外観をした、怪しげな店主が一人でやっているような店が好きなのだ。

「この間見つけたんですけど、二人じゃちょっと入りづらくて…小島さんが東京に来た時に行こうって二人で話してたんです」

と後輩が言う。

それならば行くしかないだろうと、井の頭公園を出た。しばらく住宅地を歩いているとその店はあった。

まだ明るいのに妙に暗い雰囲気が漂う店。ペンキが剥がれた白い門があり、営業中なのかも分からない。こういう店は好きだが、入るのには流石に勇気がいる。意を決して、僕たち三人は中に入った。

 

店は古い木造の建物だった。きっと何十年も前からあるのだろう。真ん中に大きな机が一つあり、その周りを椅子が囲んでいる。

すると、奥からおばさんが出てきた。店主だろう。あまり来客がないのか、僕たち三人にやや驚いている様子だった。

店主は僕たちにお茶を出しながら「うちの店はどうやって知ったの?」と聞いてきた。「いや、なんか偶然通りかかって気になったものですから…」と後輩が答える。「気になる店…そうね、フフフ」とちょっと嬉しそうに言った。

この店は昔からやっている団子屋であった。僕たちはその名物の団子を注文した。団子を待っている間、店内を見渡すと謎のスピリチュアルなポスター脱原発と大きく書かれたポスターが貼ってある。この時点で気付くべきだったのだ。この店はただの団子屋じゃないと…

 

出てきた団子はとても美味しかった。柔らかい団子で、あんこときな粉とシナモンの味があった。出していただいたお茶によく合う。食べ進めていると、店主のおばさんがこんなことを言い出した。

「私、前世占いができるんだけど、貴方達やっていく?」

前世占い…?団子屋なのに…?

気になった僕たちは受けることにした。というか、受ける以外の選択肢はない。店主から紙を渡され、そこに生年月日と生まれた時間を書いた。生まれた時間を書く理由は、そこまで細かく書くと占いの精度が上がるからだそうだ。後輩と同級生は生まれた時間までは覚えていなかったようだが、僕は親から「19時30分」と聞いたことがあるので、しっかりと紙に書いた。

紙を受け取り、店主が「じゃあ占ってくるから、その間にこれを読んでて」と何かが書かれた紙をくれた。そこには前世はある!というような話と、店主自身のスピリチュアル体験が書かれていた。さらには「この世界の真実をお勉強しましょう」と、さまざまなワードが並べられた紙ももらった(うろ覚えなのだが『ニコラ・テスラ』と書かれていて笑ってしまった記憶がある)

その後、店主が占いの結果を持ってきたが、何を話したか、なんと書いてあったかは正直覚えていない。なぜなら占いの結果が後輩とまったく同じだったからだ。一気に興味が失せてしまった。あんなに細かく書いたのに。前世が同じって魂が二分割されてるじゃねえか。

 

その後の話が強烈だったのだ。前世の話をしてるうちに、急に原発のことについて語り出したのだ。もはや団子も前世も関係ない。NO NUKESなのだ。

話についていけず次第に愛想笑いが増える三人。後輩の愛想笑いには力がなく、同級生に至っては「えーすごい」としか言っていない。僕の頭の中ではKraftwerkのRadio-Activityが流れていた。
※この曲 https://youtu.be/IWsQgmq-fNs

 

そんな三人をはるか後ろに置いてきぼりにし、爆走する店主。

すると、ついにSTAP細胞の話になったのだ。

STAP細胞はね、本当はあるのよ。九州の◯◯博士が研究してて、そこに小保方さんも元々そこにいて…」

念のため書いておくが、裏の取れていない話である。信じるか信じないかは貴方次第、ホンマでっかな話である。

そして、「その博士が作ったSTAP細胞をね、私も作って飲んでるのよ」と言ったのである。

 

STAP細胞

作って

飲んでいる。

 

STAP細胞はあったのだ。しかも団子屋のおばさんが作っていたのだ。これには小保方さんも驚きだろう。

 

STAP細胞作ってるんですか?すごいですね」と僕が言ったその時、店主がニヤッと笑った。嫌な予感がした。

 

「……飲みたい?」

 

鉄爪(ひきがね©️世良正則)を引いてしまった。

完全にSTAP細胞を飲む流れだ。

 

だが、ここまで来たらいっそ飲んでみたい。だってあの天下のSTAP細胞を飲めるチャンスなのだ。ここで逃せば一生飲む機会はないだろう。(そもそもSTAP細胞が存在するのか?というナンセンスな問いは無視する)

ただ、一人で飲むのは嫌だったので

「いいんですか!?じゃあ彼にもお願いします!」と後輩を指しながら言った。後輩の顔は引きつっていた。元はと言えばお前が行きたいと言った店だ。俺とともに心ゆくまで楽しめ。

それを聞いた店主は奥から一本の500mlペットボトルを出してきた。やや茶色く濁った液体が入っている。これがSTAP細胞なのか。

親切なことにSTAP細胞の作り方まで教えてくれた。が、だいぶ前の話なので忘れてしまった。国家機密レベルの情報だったのに…確か、水を入れたペットボトルに米粒と黒糖を入れ、数日間放置する…という至ってシンプルな作りだった。小保方さんのあのノートにも書いてあったに違いない。

店主がフタを開けるとプシュッとコーラを開けるような音がした。

「これがね、STAP細胞のパワーなの。すごいでしょ。この間2リットルのペットボトルで作ったらパワーが凄すぎてキャップが天井まで飛んだのよ」と笑いながら言った。その頃にはもう「そうなんですね…」と力なく返すことしか出来ないくらい、我々は疲弊していた。

 

目の前に出されたショットグラスに、STAP細胞を注がれる。これがSTAP細胞か…注ぐとちょっと泡立つんだな……と思った。

後輩が勇気を出して一口舐める。顔がしわくちゃになる。酸っぱいようだ。

こういうのは一口ぺろっと舐めると次の一口にいけなくなる、と思った僕は思い切って一気に、まるでテキーラを飲むかのごとく飲み干した。味は確かに酸っぱかった。どこかヨーグルトと日本酒が混ざったような味がしたのを覚えている。一気飲みする姿を見た後輩と同級生がちょっと引いていたのも覚えている。なんなら店主もちょっと引いていた。なんであんたが引いてるんだよ。

 

こうして、僕の身体の中にSTAP細胞が入ったのだった。今もあれはSTAP細胞だったと信じている。STAP細胞でなければ僕はS(酸っぱい)T(ただの)A(怪しい)P(ペットボトル汁)を飲んだだけになるからだ。

 

その店に行ったのは一度きりだったので、今もおばさんがSTAP細胞を飲んでいるかは知らない。ただ、こういう寒い日に外で冷たい風に当たると、喉の奥にあの酸っぱさが蘇ってくるのだ。

 

 

 

 

 

その後後輩は友達を連れてもう一度行ったらしい。店主のおばさんもかなりびっくりしていたとのことだ。そりゃそうだろう。ただ、団子が美味しかったのでまた行きたいとは思っている。STAP細胞は遠慮したい。

いつもより熱い湯に浸かって

寒い日が続く。

特に今週末の寒さは「急に本気出し過ぎだろ!」冬にツッコみたくなるくらい寒い。朝、地元の温度計を見たら-9℃と表示されていた。ちっちゃいシベリアか。こうも寒い日ばかりだと銭湯に行きたくなる。

僕は銭湯が好きだ。カバンにはいつも銭湯セットが入っていて、常時銭湯態勢だ(戦闘と銭湯をかけている)。誰かと待ち合わせ中、1時間くらい時間があると、近くの銭湯へひとっ風呂浴びに行くほどである。

銭湯の良さというのは、そこに向かう時からスタートしている。銭湯の所在地を調べると住宅街の真ん中にあったりする。知らない住宅街を歩くというのは異世界をふらふらと彷徨っているようで楽しい。ただ、あまりふらふらとしていると不審者と思われそうなのでそそくさと目的地である銭湯に向かう。

番頭さんに入湯料を払い中に入る。銭湯の中には色々な人がいる。住宅街の真ん中にある銭湯は日常的な風呂として使っている人がほとんどだ。だからまるで他人の家の風呂に入っているかのような、そんな緊張感がある。身体を流す時に飛沫が飛ばないようにそっと湯をかけたり、自分が使った洗い場は泡一つ残さないように綺麗にする。あと、使った椅子はちゃんと元の場所に戻す。こうも神経質にする理由は一度常連と思われる「銭湯おじさん」に注意されたことがあるからだ。

こうも気を遣ってばかりだと「銭湯ってなんか窮屈だなあ」と思われてしまうかもしれない。そう、窮屈なのだ。湯船に浸かるまでは。

身体を綺麗に洗い、いよいよ湯船に足を入れる。熱が足先から全身に伝わる。家の風呂より数段に熱い。そして肩まで浸かる。するとどうだろう、先ほどまでの窮屈が嘘のように開放的だ。極楽だ。思わず声が出そうになるが他の人もいるのでぐっと押し殺す。この瞬間が何よりも好きだ。だから気を遣いまくろうが銭湯に通う。通いまくる。

僕が特に好きな銭湯が大須にある「仁王門湯」だ。人生で初めて行った銭湯だからというのもあるが、大須に行くとたいてい浸かりに行く。この仁王門湯だが尋常ではないほど湯の温度が熱い浴槽がある。どのくらい熱いかというと熱すぎて逆に氷を触った時のような痛みを感じるほどだ。いったい何度あるのだろう。一度沸騰させていると言われても信じてしまう。友人と行くと「今日こそはいけるんじゃないか」とチャレンジするが3秒入れれば良いほうである。一度3秒以上入ったことがあるが、首から下が真っ赤に茹で上がってしまった。

 

朝-9℃と表示されていた温度計は夜になった今見ると-4℃になっていた。朝から晩までちっちゃいシベリアが続く。これだけ寒いと「今日こそは仁王門湯、いけるんじゃないか」と危ない考えが頭に浮かぶ。絶対にまた真っ赤に茹で上がるだけだ。ただ、そうなるまで熱くなった後に飲むキンキンに冷えたコーヒー牛乳が何よりも旨いのだ。一気に飲み干すと、喉は冷たいのに心が温かくなるような、そんな気がするのだ。

 

もし地獄が極寒の地ならば、天国は銭湯の形をしているのかもしれない。

神様のささやき

僕には感謝しなくてはいけない人がたくさんいる。まずは父母、祖父母。ここまで育ててくれてありがとう。お世話になった先生、友達、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。他にもたくさんいるが、今日感謝したい人はずばり「ゴボウが食べられると気付いた人」である。本当にありがとう。あなたのおかげで僕は幸せです。

 

僕はゴボウが好きだ。きんぴらごぼうはもう定番中の定番。ごぼうサラダも好きだ。ごぼうの唐揚げ、もはや居酒屋のメニューはこれだけでいいのでは?と思ってしまうくらい好き。セブンイレブンに一時期ごぼ天うどんがあった時は毎日食べていた。なくなった途端、この世界はほんの少し寂しくなった。あ、ゴボウの入ったハンバーグも大好き……と、いう感じでごぼうが好きだ。だが、ゴボウのビジュアルを思い浮かべてほしい。「根」である。これが食えるとは到底思えない。よく食べようとチャレンジしたものである。しかし、そのおかげで僕は幸せなGOBO-LIFE(ゴボウを食べて幸せを噛みしめる生活のこと)を送れているわけだ。感謝しなくてはならない。

 

ゴボウに限らず、「よくチャレンジしたな」と思う食べ物がたくさんある。ジョジョプッチ神父も「最初にキノコを食べたやつを尊敬する」と言っていたが、まさにその通りだろう。僕らは食べられると知っているから食べているが、僕がもしシイタケを初めて見たら口に含もうとは思わない。触っても何かかぶれそうだからそっとしておくと思う。

 

もしかすると、ゴボウやシイタケを初めて見た人達は神様に耳元でこう囁かれたのかもしれない。

「これ、食えるで」と。

レンコンを見た人にも囁いただろう。「これな、穴だらけやけどな、めっちゃ美味いで」と。ウニを見た人には「自分食えへん思ってるやろ、中開けてみ?ちびるで」とちょっとワクワクしながら囁いたに違いない。神様何弁だよ。あと多分囁いていない。きっと多くの試行錯誤の末に食べられることが分かったのだろう。シイタケもレンコンもウニも好きなので感謝である。

 

ただ、どうしても何故食べられると思ったのか分からない食べ物がある。石川県の郷土料理である「フグの卵巣の糠漬け」である。本来猛毒のあるフグの卵巣をなんやかんやする※詳しく知りたい方はhttps://goo.gl/GDRx93と、毒が消えるというのだ。しかも何故消えるのか分からないという。フグの卵巣を初めて見た人に神様は「あかんあかん、それ毒あるから食べたら死ぬで」と囁いているはずだ。にも関わらず食べようとした。多分、糠に漬け出したあたりで「え?なんで??なんで食べようとするん??毒やで??言うたやん??やめとき???」と再度囁いたに違いない。最初よりも大きな声で。神に欺いた食べ物である。

 

そんなフグの卵巣の糠漬けがなんと!!本日!!こちらに!!……ないのである。残念。いつか石川まで行き、神の水(日本酒)と共に頂いてみたい。あ、石川県には沢野ごぼうなんてゴボウもあるのか。食べてみたい。

石舟浮上せり

高校の頃の話である。僕は日本史の授業が好きだった。日本史自体が好きだったわけではなく、先生がたまに話してくれる「こぼれ話」が好きだったのだ。

印象に残っているのが最澄空海の話である。ある日、最澄空海というやばい坊さんがどんなやつかを確かめるために、一番可愛がっていた弟子(美男子)を空海の元へ送り込む。ところがその弟子は空海に惚れ込んでしまい、帰ってこなくなってしまった。最愛の弟子を取られてしまった最澄は、その弟子に向けて「頼むから帰ってきてくれ」と何度も手紙を書いたそうだ。その手紙が今国宝になっている……という話である(今調べたら久隔帖[きゅうかくじょう]と言うらしい)。

…こういうこぼれ話ばかり覚えていたので肝心な授業内容を全部忘れてしまい、テストは毎回散々だった。しかし、こぼれ話だけはこうして今でも覚えている。そのくらい日本史の授業が好きだったし、なによりも先生が好きだったのだ。

 

ある日、先生が授業中にこんなことを言った。「実は俺、小説家もやってるんだが、この間出版社から自分の小説が手元に返ってきた。欲しいやつは俺のところまで来い!サインもしてやるぞ!」と。

なんと先生は小説家だったのだ。一瞬にしてリスペクト値(尊敬の念を数値化したもの)が上がった。僕はその日の昼休みに先生のところに本を貰いに行った。いつもはよく喋る先生だが、本を渡す時は何も言わなかった。(今思うとあれはカッコつけていたのだろうか)

「あの、先生、良ければサインを…」

ちょっと恥ずかしかったが、勇気を出してお願いした。すると先生はその本に黙って、

 

「石舟浮上せり」

 

と書き、机から自分の名前が彫られた大きな判子を出してその下に押した。

か、カッコ良すぎる…僕のリスペクト値を測るスカウターが爆発した瞬間だった。「石舟浮上せりって何〜〜??その判子何〜〜??かっこいい〜〜!!」と。僕はサイン本を胸に抱きかかえ、教室に返った。

 

さて、その肝心の小説なのだが……うーん…なんと言えばいいのだろう。なんか女と男がフィンランドだったかノルウェーだったかに旅行へ行くというストーリーだった。が、当時の自分にはいまいちピンと来なかった。

……いや、もうはっきり言ってしまおう。クッッソつまらなかったのだ。冒頭で明らかに先生自身をモデルにした人物が出てきた時点で読むのをやめてしまった。

当時、出版社から自分の手元に本が返ってくる本当の意味を知らなかった。先生は小説を自費出版したが、全く売れなかったので借金まみれだった…と高校を卒業してから知った。「石」の「舟」ではなく「火」の「車」だったのだ。

 

今、「石舟浮上せり」と書かれたその本は、実家の押入れという、暗い海の底のどこかに沈んでいる。

NO MORE CABBEGE.

居酒屋で許せないのが「キャベツのお通し」である。

そもそも、このお通しという制度もよく分からない。日本に来た外国人が困惑するというのも無理はない。ましてやそこに生のキャベツが出てきたなら、国際問題に発展してもおかしくないのではないか。「ジャパンノエコノミックアニマルハナマキャベツポリポリ〜デス」と。

ところが、よく居酒屋に一緒に行く友人達は皆この生キャベツが好きなようで、出された瞬間に食べ始める。ポリポリと前歯でかじるその姿を見て毎回「ウサギみたいだな」と思いビールを飲む。これがお決まりパターンである。

 

逆に「良いお通し」とは何か。ちょっとした煮物なんかだと嬉しくなる。いつぞやどこかの居酒屋で出たいか明太も美味しかった。枝豆なんかもわざわざ注文する必要がなくて良い。というか、生のキャベツでなければいっそ柿の種が出てきても良い。生のキャベツ以外のものがお通しで出たのなら、その日の飲み会はそれだけで楽しいものになるのだ。

 

この生キャベツ、たまに良心的な店だとおかわりが出来たりする。僕は一切手をつけないので、友人達がポリポリと食べ進め、なくなった頃におかわりをするシーンがよくある。その頃には焼き鳥や唐揚げなど魅力的な料理が届いているのだ。なのに何故また味気のない生キャベツをおかわりするのだろう。そうしてまた僕らの目の前に山盛りになった生キャベツが届く。またポリポリと食べ始める。「あれ、小島さん食べないんですか?」と聞かれることもあるが、「誰がそんな味気のないものでビールが飲めるのか!」とは言えない。場の空気が悪くなるからだ。「いや、食べて食べて」と促す。そうするとまたポリポリが始まる。それを見ながら二杯目のビールを飲むのだった。

 

そんな光景をよく見ていると、ふとあることを思った。キャベツをポリポリと食べるあの姿というのはとても無防備である。最初は丁寧に箸で食べていたものも、途中で面倒になったのか素手でキャベツをつまみだす。あまりにも無防備だ。だが、お互いに気を遣わず、分け隔てなく打ち解けるのが楽しい飲み会なのだとも思う。例えば、普段接しにくい人と飲みに行き、その人が素手でキャベツをポリポリと食べる姿を見たのなら、その後の見え方もちょっと変わってくるのではないか。茶室の入り口が低くなっているのは、入り口で頭を下げながら入ることによって、茶室の中にいる人は皆平等なのだという意味があると聞いたことがある。生キャベツも同じような意味があるのかもしれない。ポリポリと齧りあえば、皆平等なのだ。

 

とはいえ、だ。僕はこれからもお通しのキャベツに手を出すことはない。例えそれが二十億光年に続く孤独の始まりだとしても、食べることはないだろう。ひずんだ宇宙の片隅で、僕は自分の信念を叫び続ける。

 

NO MORE CABBEGE.